【大相撲】「出羽海一門」を徹底解説!一門の特徴や相撲部屋は?

2020年8月27日

大相撲の一門の中でも名門として知られる「出羽海一門」。過去には厳しい掟も存在しました。当記事では、それらを踏まえながら出羽海一門について詳しく解説しています。気になった方はどうぞ寄ってってください!

「出羽海一門」とは?

出羽海一門は、明治末期にかけて活躍した横綱・常陸山(5代出羽海)がその開祖。角界の保守本流的な立ち位置で知られる名門中の名門です。

特に宗家の出羽海部屋は、歴代最多となる9人の横綱を育てた部屋として知られています。同時に分家の独立を許さないといった不文律が過去に見受けられ、長らく出羽海部屋、春日野部屋、三保ヶ関部屋の3部屋で一門をなしていた時期があります。

近年においては、出羽海一門出身の力士の半数近くが、相撲協会の歴代理事を務めていることからも名門である一端が伺えます。

出羽海一門三羽烏

過去には、「出羽海一門三羽烏」と称された3人の力士が、角界を大いに盛り上げたことがあります。大正、昭和のそれぞれで活躍した力士らは、いずれも出羽海一門だったことから当時は大いに注目されていました。

大正の出羽海一門三羽烏は、第26代横綱・大錦、第27代横綱・栃木山、第31代横綱・常ノ花の3力士。いずれの力士も出羽海部屋出身で、横綱になっているのが特徴。

かたや昭和の出羽海一門三羽烏は、大関・栃光(春日野)、第49代横綱・栃ノ海(春日野)、大50代横綱・佐田の山(出羽海)と、春日野部屋と出羽海部屋の同じ一門として活躍した力士らのことを指します。

再び出羽海一門三羽烏が復活する時期がくるのが待たれます!

一門の系統

出羽海一門、その大元を辿ると宗家の出羽海部屋、春日野部屋、三保ヶ関部屋の3つ部屋にいきつきます。出羽海の分家独立を許さない不文律から、しばらくの間はこれら3部屋にて一門をなしています。

春日野部屋(27代横綱・栃木山が創設)は、本来、分家の独立を許さないにもかかわらず、出羽海部屋から例外的に誕生した相撲部屋。

やや特殊な三保ヶ関(みほがせき)部屋は、出羽海部屋から独立した部屋というわけではなく、8代三保ヶ関の死去による部屋の閉鎖にともない、当時、その部屋の力士を当時の出羽海部屋が預かったという経緯から、三保ヶ関部屋が1950年に再興したことを機に出羽海一門となった相撲部屋です。

分家独立を許さなかった名門に転機が訪れたのは1981年。14代武蔵川(横綱・三重ノ海)が、出羽海部屋の禁を破り、武蔵川部屋が分家独立を果たします。

そして、堰(せき)を切ったように、出羽海部屋からは田子ノ浦部屋、中立部屋、春日野部屋からは玉ノ井部屋、入間川部屋、そして三保ヶ関部屋からは、北の湖部屋、二十山部屋といったように3部屋それぞれから分家独立相次ぎます。

その後も部屋の独立は続き、現在では一門の相撲部屋も大幅に増えています。近年では式秀部屋が時津風一門より転属するなど、以前では考えられなかった様相もみられるようになっており、かつての名門も時代の流れに対応せざる状況に陥っているといえるでしょう。

出羽海一門の相撲部屋

現在(2020年8月19日)、出羽海一門に所属する相撲部屋は以下の通り。

出羽海部屋(宗家)、春日野部屋、山響部屋、玉ノ井部屋、入間川部屋、式秀部屋、立浪部屋、境川部屋、尾上部屋、藤島部屋、木瀬部屋、武蔵川部屋、二小山部屋

過去、一門が3部屋だったことを考えると、相撲部屋は爆発的に増えているのは一目瞭然。もはや分家独立を許さないといった不文律はなきに等しいです。今後も独立や移転は相次ぐことは必死と言わざるを得ません。

総括

「分家独立を許さない」といった不文律も今や昔。一門も変わらずを得ない状況といったところでしょうか。これはひとえに大相撲の人材難が大きく影響しているといえます。そういった意味で、今後この名門がどのような変化をしていくのか大いに注目です!