わずか1年半の”北玉時代”とは?北の富士の語る玉の海とは?
解説でお馴染みの北の富士。かのライバル「玉の海」と繰り広げた激闘は、1年半の短い期間ならがらも、「北玉時代」として相撲の歴史に確かな足跡を残しています。
当記事では、その「北玉時代」がいつ頃にあたるのか? 加えて北の富士が当時玉の海に対してどのような思いを抱いていたのかを詳しく解説しています。気になった方はどうぞ寄ってってください!
幻の北玉時代
北玉時代とは、主に北の富士と玉の海が横綱になった1970年3月場所から、玉の海の最後の取組となった1971年9月場所にかけてのおよそ1年半の期間を指します。時期としては、大鵬と柏戸の“柏鵬時代”、輪島と北の湖“輪湖時代”の間にあたる時代となります。
期間がわずか1年半と非常に短いのが北玉時代の特徴ですが、これは玉の海が1971年9月場所の後に急性虫垂炎が原因で亡くなったためです。一時代を気づいた大鵬がその年の10月に引退相撲をしたことから、北玉時代はまさにこれから絶頂期を迎えようとしていた矢先に訪れた悲劇です。
そういった意味では北玉時代は、まさに幻の時代だったいえ、そもそも1年半の短い期間を“時代”と呼ぶべきなのかと疑問視する声も少なくありません。筆者個人の意見としては、わずかな期間ながらも彼らが角界を引っ張っていた時期は確かに存在し、北玉時代と呼んでも問題ない気はします。
北の富士が語る玉の海
現役時代否応なし比べられた両者ゆえに、互いが意識しないわけがありません。特に北の富士は、玉の海については現在でもたびたび語っています。
例えば解説で初めて玉の海を見たとき、北の富士は、玉の海の身体もそれほど大きくないこともあって「大したことないだろうなぁ」と思っていたそう。そして、取組も「取りやすい」とも語っています。
ようは少しなめていたのです!北の富士らしいといえば北の富士らしい。
おそらく北の富士からしてみたら、当時はちょっと気になる程度の存在だったのかもしません。実際、取組でも自信があったみたいですし。
ですが、その後に両者は激闘を繰り広げ、同時横綱昇進を果たし場所を大いに盛り上げたのは周知の通り。北の富士からしてみれたば、生涯のライバルが彼だとは夢にも思わない、そのまさかといった心境だったのではとふと思いました。。
他にも玉の海がなくなったときのことをついてコラムで以下のように語っています。
人目も構わず泣きました。夕食もせず泣き続けました。私と玉の海は「島ちゃん」「北さん」と呼び合っていましたが、それほど親密な付き合いはありません。一門も違うし、2人だけで飯を食べたこともありません。ゆっくり話ができるのは年に一度の横綱会の時くらいなものです。彼は非常に明るい性格でハキハキ物を言い、よく笑う好青年でした。親孝行で、よくお母さんの話をしていました。酒も飲みませんでした。大酒飲みの私と全て対照的でした。
このように北の富士にとって玉の海はまさに戦友だったことが伺えます。また、北の富士が語るようにその何もかもが対照的ゆえに気になる存在であるとともに、同時期に“横綱”という共通するものを持ったことがそれに余計に拍車を立てたのだといえます。そして、北の富士は糸の切れたような心持になってすぐに引退しています。
筆者は、ここから家族、友人というよりも、互いが力士であるために必要な関係だった気がしてなりません。
北の富士と玉の海の戦績
北の富士と玉の海のライバル対決は43回に渡って繰り広げられていますが、その内訳は北の富士が22勝、玉の海が21勝と北の富士が勝ち越していますが、その差はわずか1勝。
また、横綱時代の成績は、北の富士が6勝、玉の海が4敗、横綱以前だと北の富士16勝、玉の海17勝と今度は玉の海が勝ち越しています。両者の成績は横綱前後でもともに肉薄しているのが分かります。
以上より、成績だけとってみても互いが生涯のライバルと呼ぶに相応しい存在だったことが、はっきりと見て取れます。
総括
そのあまりにも短い期間ゆえに柏鵬時代の次は北玉時代とするのではなく輪湖時代とする見方もありますが、柏鵬時代と同様に二人の力士が同時横綱昇し、わずかな期間ながらも彼らが角界を引っ張っていた時期は確かに存在することからも、筆者は北玉時代を全く否定するのも違うかなと思います。
また、成績からも、彼らが生涯のライバルだったことがよく分かります。まさに運命的とも言えるかもしれません。
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