【大相撲】稀勢の里引退 引退理由や引退後は?詳しく解説!

かの横綱、稀勢の里の引退は何が原因だったのか?当記事にて詳しく解説しています。加えて引退後について気になった方もどうぞ寄ってってください!

稀勢の里の引退 「ラオウ」好きがここでも

稀勢の里は、2019年1月16日に引退(当時35歳)しています。引退相撲・断髪式は、2019年9月29日に実施。

横綱としては2017年3月場所に初めて土俵に立っているので、在位期間は約2年。歴代力士と比べると短命です。

引退会見では「私の土俵人生において一片の悔いもございません」と、自身が愛読する漫画『北斗の拳』に登場するキャラクター、ラオウの最期の言葉「わが生涯に一片の悔いなし」を引用したとして話題になりました。

かねてから稀勢の里のラオウ好きは有名で、横綱昇進を果たしたときは『北斗の拳』の化粧廻しを身に付けて土俵にあがったほど。現役時代口数が少なかったも、このラオウの影響も大きいです。ただ、今の稀勢の里が饒舌なのは周知の通り。

ただ、この「悔い」のないというコメントに対して、ネットではいやあるだろという結構突っ込んだ意見が多かったのをよく覚えています。在位中の休場の多さや勝率などを鑑みると横綱としては、流石に悔いが残ったのではと考えるのは無理ありません。無粋ですが。

また、後のインタビューで稀勢の里も、戻れるなら怪我の直後に戻って安静にしたかったと、コメントしていることからも、やはり思うところはあったみたいです。

引退の理由は怪我

横綱在位12場所という短命に終わった稀勢の里ですが、その最大の原因は怪我。

引退会見でも、「怪我をする前の自分に戻ることはできなかった」と、自身の引退が怪我であったことを示唆しています。

具体的な怪我については、左上腕部、左胸の断裂で、横綱昇進後の2017年の春場所13日目の日馬富士との取組で負ったものです。

筆者もテレビで見ていましたが、稀勢の里が苦悶の表情を浮かべていたのが印象に残っています。

怪我による影響は想像以上のものだったみたいでで、「大胸筋断裂のときには、ある一定の位置でしか力が出なかった」と後に語っています。

また、横綱という立場ゆえに自身が土俵にあがらないといけない責任を強く感じ、怪我が完治していないにもかかわらず、無理に場所に出ては休場の繰り返しを続けたのも引退を早めた原因です。

結局、横綱として初めて臨んだ場所で優勝するも、この時負った怪我により途中休場を含め8場所連続休場をしてしまいます。そして翌場所で10勝を挙げるも、次の場所でまた途中休場、そして最後の場所となった2019年初場所は4連敗した後に引退しています。

うーん、この煮え切れない結果を見ると、横綱として優勝した代償はあまりにも大きく、また、その後の対応も不味かったと言わざるを得ません。たらればですが、このとき何場所か休場に踏み切って怪我を完治させてから土俵にあがっていたら、また結果は違っていたかもしれません。時すでに遅しですが…。

引退後は大学院生からの親方に!?

稀勢の里は引退後に、荒磯として親方になるのですが、そのまま大学院に通っています。

専攻は、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に進んでおり、「新しい相撲部屋経営の在り方」という修士論文を提出して最優秀論文として表彰されています。

「新しい相撲部屋経営の在り方」という論文からも、完全に将来親方として見据えた上での進学だということが分かります。すぐに部屋を構えるのではなく、一度経営についてきちんと学ぶ姿勢が従来の親方とはまた違います。

あと、大学院といえば元横綱・日馬富士もかつて大学院に通っていました。現在は既に修了し、自ら手掛ける小中高一貫の私立学校「新モンゴル日馬富士学園」を開校したとのこと。今度は横綱引退後のトレンドになる?

大学院修了後は、2021年12月に年寄が荒磯から「二所ノ関」を襲名し、2022年6月に念願の相撲部屋を設立します。

相撲部屋は地元茨城に建てており、土俵が2面、バスケットボールがあるなど広い敷地を存分に利用している豪華な仕様となっています。

また、さらに結婚もこの間にしており、まさに順風満帆です。

将来は、自身と同じ横綱を輩出することが夢だと語っている稀勢の里改め二所ノ関親方。今後、この部屋からどんな力士が登場するのか楽しみです!

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総括

稀勢の里の引退については、特に終盤はもう引退したほうがよいのでは声が大きく、引退一色ムードで目も当てられませんでした。個人的には頑張って欲しい気持ちと休場を繰り返すなら引退もやむなしといった感じで、引退が決まった時は仕方ないかなといった感じでした。やはり横綱としては、怪我があったにせよ、あまりにも休場が多く、大関としては立派だったが、横綱としては物足りないというのが率直な感想です。

ただ、モンゴル勢が猛威を振るった時代に場所を沸かせた、最も強い日本人力士だったことに疑いの余地はありません。今後は親方としての活躍に期待します。